tictacjintonicのブログ

万人に読まれる可能性のある個人的なメモだと認識しています

魂のバックグラウンド 1

これは就活の自己分析のみならず、自己を見つめ直すという目的に即して記すものである。

私は次男として生まれ落ちたことは私の人格形成に大きく影響している。3つ上の兄は一言でいうと優秀である。一つ先二つ先を行く兄を追って私の人生は構築されてきたと言っても過言ではない。ガキ大将とまでは言わないが、カリスマ性があり常に中心に立っていた兄に常に憧れ、二番煎じをしてきたのが私である。そして好奇心旺盛でなんにでも取り組む兄を見て間接的な体験から学んできたともいえる。兄が中学生の時に学校に携帯ゲーム機を持ち込んだときは、いかにして見つからないように工夫するかを学んだし、偶然それが見つかって叱られたときには、悪いことはいずれ人に見つかると学んだ。

兄が優秀であることで必然的に私自身もその道を歩むようになった。今でも覚えているのだが、小学校時代に兄とその友人たちと遊んでいるときがあったが、そのあと同級生たちといる時間がひどく退屈に感じられたことがあった。私にとって兄が主導する遊びは創造性にあふれ革新的であり、今更3年下の同級生たちとはそりが合わなかったのである。ちなみにそのせいか同じような境遇の同級生たちとよく遊ぶようになった。しかし、私は兄がいるからそのように感じたと考えていたが、その兄が凡庸であるときには私のようなケースにならないということを学んだ。今思うと、私は年齢関係なく尊敬できる人間でなければ話を聞かないという性質はここからきているのだろう。

私は高校選びも同様に兄を追ったものだった。当時は日本の学校に行きたくないという適当な理由だったが、なら他の学校を精査するべきだったし、そもそもその理由すら明確な根拠はなかった。ともかく、兄と同じ学校に、それも一年間は重なって通えることが第一の理由だった。結果的にはその高校で学んだことは誤った選択ではなかったが、そのくらい適当な理由で、兄の存在が大きく選んだのだった。そこでも、初めは違ったが結局同じ部活に参加するようになり、小学校時代と同じように兄の友達にかわいがってもらったりしたのだった。

ただ、兄が先に卒業してからはそういうわけにもいかなかった。定期的に連絡は取っていたが、帰国してもバイトや大学で忙しい兄に対し、私はともかく暇でしょうがなかった。のちに同じバイト先で働くことになるのだが、それもまた濃い話なのでまた後で。その間私は一つ上の先輩を師と仰ぐことになるのだがそれもまた今度。いずれにせよ、大学に入るまでにそれまでの兄の存在感は私にとって薄れていた。

性懲りもなく兄と同じ大学に入学するのだが、学部は違った。先に述べたように私は兄を見て経験値とするが、まさしくそのケースとなった。兄は第一志望の学部には進学できず、興味のない必修に圧迫されて留年を重ねていた。そこで私は、自分の学びたい学部に行かなければ就活と改善に卒業が危ぶまれる、特に私のような興味のない分野にはまったく労力を割けない人間にとっては、そう感じた。加えて、高校時代にはカリキュラムで納得のいかない部分が多分にあったこともあり、とにかく自分の好きなことを学びたい!さらには、就活とか世間体とかのために自らを偽ってまで大学の4年間を過ごしたくない!という強烈な欲を感じたため、文学部に進学した。結果それは私自身を人生で初めて学問に熱意を沸かせることとなり、成功といえる。また、実家が大学と近いというアドバンテージがあるのだが、それに気を抜いたことも兄の留年に作用したと考え、毎日1限の授業を入れることで高校時代のように自動的に起きなければいけない時間を定めて出席率90%以上を保った。

現在、兄は依然一つ上の学年であるが、それを恥と思ったこともないし、それ以前に高校で罰を受けたこともそれがどうしたと考えている。守るべきルールやシステムはこの世にあるが、それから外れたことがその人格否定や社会不適合だという烙印にまでつながるのはおかしいのではないかと考えている。これは別に身内をひいきした結果ではないが、きっかけはそこにあった。ルールとは何のためにあるのか、社会とはなんなのか、そんな問題提起のきっかけになったのはまさしく兄の存在があったからだと思う。

先に「以前ほど兄のことは尊敬していない」といった趣旨のことは書いたが、それは私の自立や身内への中立性という意味ではプラスの意味を持つ。変わらず兄のことは尊敬している。話も合うし相変わらず独創性に富む、気の利く兄は誇るべき存在だが、私同様に思考が深くなった結果虚無感に襲われることもあるのだと思う。私はそれを割り切る術を、兄のいない高校生活で得たが、恐らく兄は幼少のころから習慣付いているそれに辟易しているのだと思う。兄として、できる人間として、家族や学校そして社会から期待されることに、もううんざりしているのではないだろうか。仮にそうだとして、私はそれを批判するつもりはない。ただ、同じように社会はそれを受け入れがたいのだ。現代の複雑化した社会は病理を持っていると考えるが、それは拒絶したくともそれと関わらずに生きていくことは不可能に近いし、かといってその中に生きることも閉塞感を招くのでは、どこに行ったらいいものかわからなくなるだろう。思うに、社会に出て精神を患う原因はそこにあるのではないだろうか。

社会という言葉を用いたせいで整理がつかなくなってきたので、兄の話に戻って締めたいと思う。

夫婦というのは他人同士が結ばれた関係であり、紙切れ一つでまた他人になり得る。しかし血縁にある兄弟は、それをやめたくても、何かしらの書類手続きを踏んだとしても、物理的に同じ血が流れている以上分離する方法はない。私はたまたま人として尊敬できる兄を持ったので、その背中を見て学んできたし、学問領域から離れたとしてもそう簡単に関係は変わらないだろう。そして同様に兄も、私という弟がいたからこそ今までの人格形成がなされているのであり、私という存在から学んだこともあるのだろう。私は、行動というより慎重派だし、人見知りではないが広い交友関係を持つわけでもなく、気が利く方でもなく、他人や組織をリードするような人間でもない。それは全て兄という存在があったからこその私である。逆に物事を慎重に判断し、持つ交友関係は深く大事にし、心を許せる間柄であり、組織をサポートする人間である。私を語るうえで兄を抜きにすることはできない。そして皮肉なことに恐らく兄の困難の原因である社会との関係のように相互作用関係を私と兄も持っているのである。

いつもどおり殴り書きのメモのように綴ったが、自分史を分析する手法を数回に分けて行おうと思う。

スーモ君はマリモのような見た目だが、きれいな水にしか住まないマリモと違い我々はウサギ小屋に住んでいる。