tictacjintonicのブログ

万人に読まれる可能性のある個人的なメモだと認識しています

競馬の話から

 今日は母の日らしいが、これまで特に母の日に母をねぎらうということをしてこなかった。ヒネているので、わざわざ用意されたものには乗らないということにしている。それは逆説的に考えるならば、普段から母に感謝していればこんな日でもいつもどおりの感謝を伝えればいいのではないだろうか。なんて屁理屈をこねて自分を正当化するのが悪い癖だ。

 それとは別に、5月8日という日は私にとって特別な日になった。というのも、競馬で大勝ちしたからだ。今日はNHKマイルカップという最もグレードの高い競走の一つかつ、その名の通りNHKが主催のためNHKで競馬を放映する数少ないレースが行われた。あまり軍資金がなかったので私は3番人気と4番人気の馬だけで買おうと決めていた。2頭の馬の単勝馬連馬単、ワイドで勝負だった。結果、もう一頭の単勝だけ外したが残りは全て的中することができた。どちらかが1着に来れば回収できる買い方だったのでそこまで大当たりではなかったが、買った馬券が見事に的中したのはとても嬉しかった。

 競馬も終わり、興奮冷めやらぬままウマ娘や過去の競馬を観たりしていた。ウマ娘についてはまた別の機会に綴りたいと思う。その中でキングヘイローの鞍上福永祐一騎手が初めて東京優駿に挑戦したこと、ワグネリアンで初めて勝利したことに改めて感動していた。まさかダービーを連覇したり、ここ最近のようにG1やクラシックを勝つようになるとは、キングヘイローに乗っていた頃からは想像もできないように思う。福永祐一騎手がその時の映像を自分で観て振り返るという動画がyoutubeにあるが、何がだめだったのか細かく分析しているのは流石だと思うし、だからこそ今の彼に繋がっているのだと思う。

 しかし、福永祐一騎手以上に私が好きなのはその父である福永洋一元騎手である。氏は"天才"と称された騎手であり、エピソードを語り始めたら枚挙に暇がない。ここで一つだけ挙げたいのは、1977年の皐月賞を勝ったハードバージの騎乗である。非常に古いレースだがyoutubeに動画が上がっているのでぜひ観てもらいたいレースである。最終コーナーを大外で回り、直線で内に入るが馬群に進路を阻まれ、たかと思われたが気がつくとさらに内に切り込み、差し切り勝利するというシーンは言葉を失う。このレースの鞍上が福永洋一氏である。

 最終コーナーを回って進路に困り内に行く、そこで前がふさがっていればどうしようもなく、ブレーキを踏むしかできないというのが常である。しかし氏は、下手をすれば他馬の走行を大きく妨害してしまう斜行とも言われかねない、尋常ならぬ横軸移動で内ラチいっぱいまでハードバージを寄せるとそこから僅かな進路を見出し前進し勝利をもぎ取ったのである。ここで補足しておきたいのは、皐月賞が開催される中山競馬場というコースの性質上、最後の直線は非常に短く、進路を変えているうちにゴール版を過ぎてしまわないように、氏は一切の減速をしていないことである。競走馬はおおまかに60km/hで疾走し、それを操る騎手の目線を考えるとその恐怖心はベテランであっても相当のものであろう。しかし氏はそのスピードを維持したまま密集した馬群の間をすり抜けほんの小さな進路を見出し、迷わずその道を進出したのである。言葉を失うとは、この時のためにあると言っても過言ではないと思うほど衝撃を受けたレースだった。こればかりは経験だとか鍛錬だとかそういう次元を超えていると感じた。そこにあるのは天才がもつセンスと、勝つためにはほんの小さな可能性でも挑戦し、その小さな可能性を成功に引き寄せる、ある種の狂気があるように思われた。

 福永洋一氏の後にも天才と呼ばれる騎手はいる。例えば、日本中央競馬会からは追放されてしまっている元騎手の田原成貴氏や、このところめっきり気合の減ってしまっている武豊氏などもそうである。しかし、この皐月賞ハードバージを操った福永洋一氏の騎乗の前には、いかなる偉大な騎手も"天才"という称号を諦めずにはいられないのではないだろうか。武豊騎手、川田将雅騎手、クリストフ・ルメール騎手、氏の息子の福永祐一騎手など「上手い」「強い」騎手は現在に至るまで更新され続けているが、こと"天才"に関しては福永洋一氏以来それを超える存在は出てきていないように私は考える。そして非常に残念なことに氏は落馬事故により後遺症を負い、騎手を引退してしまった。

 リハビリを懸命に続け、発声や移動も限定的ではあるが可能になり、息子の福永祐一騎手の働きかけもあり、故郷の高知にある高知競馬で福永洋一記念というレースも毎年開催されるようになった。そのレース後にはトークショーがあるのだが、かなりの頻度でダービー制覇の話題があった。というのも、数多くの重賞やG1を制した福永洋一氏だったが、引退するまで日本ダービーを勝つことはなかったのである。その悲願を息子の祐一騎手が達成するのを長い間待ち望まれていたが、1998年にデビュー2年目ながら3番人気のキングヘイロー号で初挑戦するも、それ以降2017年にワグネリアン号で同レースを制するまで叶わぬ夢であった。

 その後、2020年と2021年をコントレイル号とシャフリヤール号でダービー連覇を達成するなど、福永洋一騎手の活躍はそれ以前よりもさらに大きくなり、思うに天才である父の悲願を成し得たことが、心に刺さっていた錆びついた釘が抜けるのに結びついたのではないか。偉大な父が活躍した世界に入り、誰からも"福永洋一の息子"として見られ、恩恵はあるが重圧もある中で成果を出していったが一番欲しいダービージョッキーの称号だけは手に入らない。そのうちに同じ2世ジョッキーの武豊騎手は1998年のスペシャルウィーク号をはじめ何度もダービーをそしてG1レースの勝利を築いていくのに食らいついていくだけで精いっぱいで、そうしていると今度は優れた後輩からの突き上げにも遭う。意識下でも無意識化でも多くの重圧や苦悩があったのではないだろうかと推察する。

 非常に悲しいことに、福永祐一騎手にダービー初勝利をプレゼントしたワグネリアン号は年始に亡くなってしまった。彼がもう一度大舞台で勝利するレースを観たかったが、とても残念である。じつはそのワグネリアン号の母父にあたるブロードアピールという元競走馬が…なんて終わりがなくなってしまうので、いったんここまでにしたいと思う。