tictacjintonicのブログ

万人に読まれる可能性のある個人的なメモだと認識しています

人は死を目の前にして何を視るのか

 夏が終わってから親類が3人亡くなった。いずれも高齢でなにかしらの持病があったそうだが、こうもタイミングが重なるのも考えものだ。冬になると高齢者は亡くなりやすいのかと思ったが、そんなことはないらしい。ただ、寒くなって日が短くなると気持ちが落ちやすくなるのは人間の性質なのではないだろうか。

 人は死を目の前にして何を視るのだろうか。古代から死や死に方については議論されてきた。当然それは今日になっても解決していない議題である。一般的によく言われるのは、「悔いのない人生を過ごしたか」という点だろう。これはある程度真実だと感じることができる。もう死ぬこと以外のことはほとんどできないのだから、過去を振り返ってそれを個人の主観で正当化や意味づけをするしかない、ということは言えるだろう。

 先日、「月があまりにも綺麗だったので」という短編を書き始めた。これは単独で交通事故を起こした学生が警察官と死について議論するという内容なのだが、これは私の実体験から着想を得ている。ある夜、私が一人で運転をしていると、とてもきれいな月をフロントウィンドウから見ることができた。しかし雲がかかりそうで、またもちろん運転中なので、すぐに前を向いて運転に集中した。ただ、本当にきれいに見える月だったので、私はとても後悔した。もうあの月は見れない。危険だとか規範とか社会とかそういったものに囚われて人生に悔いを残すことがとても虚しく思えた。だから、仮に悔いのない様に月を注視し続けていたら、それを稚拙ながら文章に著してみようと思い立ったのである。

 結局、人間は社会規範の下で行動せざるを得ない。そのルールの上に立つことが出来なければ、サイコパスだとか異常者だとかいったレッテルを張られて過ごすほかない。ただ、時にはそういった考慮を無視しなければ、人生を振り返ったときに後悔なんて微塵もない、なんてことはできないだろう。たまに聞く話だが、亡くなった祖父の遺品を整理していたら愛人との手紙が出てきたとか、祖母が初恋の人と会っていただとか、そんなことがあるそうだ。それをいったい誰が非難できるのだろうか。母であり祖母であり妻であることはいずれも社会を生きるうえでのロールである。ただ個人として考えたときには女性であり一人の人間である、その自由をいったい誰がとがめられるのであろうか。さらに言うのなら、それによって特に誰も迷惑を被っていないのであるなら、子どもも、孫も、そして夫も咎めることはできないのではないか。

 生と比較したときに、死は個人的なものである。この世に生を受けた以上、親やそれに相当する人物によって保護を受けなければ生きていくことはできない。ただ死に関しては、大小の差あれど必ずしもそういった他者へ負担をかけることはない。生まれたことに関しては極論で親を非難することはできる。ただ死ぬことに関しては身分の上下や資産の大小にかかわらず万人に平等に訪れるものである。死は必ず経験するものであり、それは多くの場合、本人に物事の分別がついてから受け入れるものである。

 このように考えたときに、人間は普段は社会的な動物であると言えるが、完全に平等な死について考える時、ある程度本能的な動物にならざるを得ないのではないだろうか。

 そして、仮に人間が死を目の前に、その人生を振り返って後悔の有無を確認するのであれば、社会的な生活、規範的な行動、そういった”生きるうえで必要な力”というものの意味は相対的に小さくなると言えるのではないだろうか。そうだと考えるならば、我々が普段生きている社会や、通念上のルールといったものは我々が考える以上に意味のないものなのではないかと考えることも可能である。ただ、既に述べたようにそれを生きている間に行うことは非常に厳しいものがある。同時に、死とはいつ訪れるのかわからないものでもある。多くの情報を受けるようになり、また発信するようになり、物理的距離が大きく縮まる今日において、改めて”生きるとは・死ぬとは何なのか”について考える必要があるのではないかと感じ、また提唱していきたい。

 

本日の標語:メメントモリ・トシオモリ